世界のペンキ(塗料)はその歴史が古く、人類は有史以前から塗料を使って彩色を施していました。
日本の歴史を紐解くと、塗料は縄文時代から存在し、高い塗装技術と文化がありました。
では、塗料はどのように使われ、いつごろから外壁塗装に使われ始めたのでしょうか? 塗料がどう進化していったのか、その歴史とペンキ発展について紹介したいと思います。
赤から青へ古代の世界で用いられた塗料
人類が塗料を使ったことが確認できる最古のものは、スペインンのアルタミラ洞窟の壁画です。歴史の教科書などでも紹介されているのでご存じの方も多いと思います。
この頃に使われた塗料の原料は動物の血液や、植物の樹液などで、それに色土やすすなどを混ぜ合わせていました。
血液や赤土などが使われているので、色彩は赤系の色合いが強く、茶や黒、黄色なども見られます。
四大文明の時代になると、天然アスファルトが使われ始めます。天然アスファルトは、原油成分の軽い部分が地表に出てきたもので、水をはじくことから防水剤としても利用されました。また、熱を加えると溶け、常温では固まるため、接着剤の役割を果たします。
防水効果と吸着という点から考えると、現代のシーラーに似ているかもしれません。実際、メソポタミア文明やインダス文明では、建材に使われていました。
さらに、殺菌効果もあるため、エジプト文明ではミイラの防腐剤としても利用されていたようです。
時代が進むと、鉱物などを原料にした顔料が登場してきます。
ラピスラズリという鉱物を原料として、鮮やかな青色となる顔料「ウルトラマリン」は、クレオパトラがアイシャドーとして愛用していたといわれています。ラピスラズリの他、トルコ石も青い顔料としてエジプトでは好まれていましたが、いずれも希少価値が高く、入手が困難でした。
そのため古代エジプト人は身近で手に入るものから人工顔料「エジプシャンブルー」を生み出しました。
日本では縄文時代から使われていた漆
日本で、古くから使われている塗料として「漆」があります。ご自宅などで漆製品をお使いの方もいるかと思いますが、漆を塗料として塗装に使う漆塗りは、約6000年前まで遡ります。
石川県は輪島塗で有名ですが、この地域では古代から漆が使われていました。三引遺跡(七尾市三引町)では、貝塚から日本最古の漆塗りの櫛が発見されました。
縄文時代にはすでに漆を塗料として使う技術があり、石川県に限らず、各地の遺跡で矢じりや土器や籠など、漆製品が出土しています。
漆は中国から日本に伝来したものと言われていました。その理由として中国で約7000年前の最古の漆製品が発見されたことにより、日本の漆製品は中国から由来した、と考えられています。
ですが、植物の漆がかつて日本にも自生していたことが発見されているので、漆の由来が中国であると断定できるものではないでしょう。
日本最古の顔料は卑弥呼時代の鉛丹
弥生時代以降、日本でも顔料が使われはじめています。
最古の資料は魏志倭人伝に記されています。邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に使者を送った返礼として、魏から銅鏡などの宝物が贈られるのですが、その中に「鉛丹(えんたん)」という記述があります。
鉛丹は鉛を原料とした顔料で、「光明丹(こうみょうたん)」、「赤鉛(せきえん)」、「赤色酸化鉛(せきしょくさんかなまり)」とも呼ばれています。
別名からわかるように、鉛丹は鉛を酸化させた顔料で、鮮やかな橙色をしています。
つい最近までさび止めとしても利用されていた塗料です。
ほかにも硫化水銀の鉱物「辰砂(しんしゃ)」が赤い塗料として使われており、古事記や日本書紀にも記載があります。辰砂は防腐効果があることから、古墳の石室や木簡に大量に使われていました。
高松塚古墳の壁画にも絵具として使われています。
その後、鉱物由来、植物由来の顔料が使われ始め、平安時代の百科事典である和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)には、「藍(あい)・黄櫨(こうろ)・楯子(くちなし)・茜(あかね)・紫草(むらさき)・紅藍(べにあい)・黄草(きぐさ)・鴨頭草(つきくさ)・赤菟(せきと)・橡(つるばみ)」といった顔料が記載されています。
昔の日本の外壁塗装は神社仏閣が主
日本の建築物の外壁は、板壁や土壁が主で、外壁には塗料を塗るといった概念はあはまりありませんでした。土壁は木舞(こまい)と呼ばれる竹製の枠に、土とわらを練ったものを塗り重ねて仕上げる「左官屋さん」の仕事です。
土壁は保温性に優れ、湿度調節の機能もあるため、湿度の高い日本の風土にあった外壁材といえます。この土壁に石灰石(炭酸カルシウム)を加えたものが漆喰(しっくい)です。
古くは高松塚古墳やキトラ古墳の下地として用いられ、飛鳥時代から奈良、平安時代は高級建材として使われてきました。
防火性にも優れていることから、戦国時代には城郭などにも使われています。白鷺城の別名でも有名な姫路城の白く美しい壁も漆喰です。江戸時代は武家屋敷や商家の蔵などに使われました。
日本建築で塗料を塗るのは、主に神社仏閣です。
金閣(鹿苑寺)や銀閣(慈照寺)、日光東照宮などは内外に漆が塗られています。
純性の漆は最適な湿度での保存や、高熱への配慮をしなければヒビ割れや変色が起こりやすいことや、高価なことから、現代では安価な合成樹脂の利用が進み見た目がよく似ているウレタン塗装を行っているところもあります。
また、神社の社殿や鳥居など、鮮やかな朱色に塗られているのをよく見かけます。これは丹塗り(にぬり)と呼ばれ、鉛丹に硫化水銀の朱を加えて鮮やかな色を作っていました。丹塗りは仏教の伝来と同じころに日本に伝わってきたとされ、いまでも伝統的な丹塗りにこだわっている神社仏閣もあります。
ただ、原料が鉛と水銀なので、毒性が強いことから、現在は合成樹脂などの塗料で塗られていることが多いです。
黒船がもたらした西洋塗料(ペンキ)
日本の建築物に西洋式の塗料が用いられたのは1853年に黒船でやってきたペリーがきかっけでした。それ以前でも長崎の出島にあるオランダ屋敷に西洋塗料が使われたことがありましたが、鎖国時代ということもあり、普及はしませんでした。
日本に開国を迫ったペリーは、1854年に再度日本を訪れます。この時に、江戸幕府は交渉の場となる応接所を神奈川宿(現在の横浜)の本覚寺境内に急造します。外国人との交渉の場を西洋風にしたいと考えた普請奉行の林大学頭は江戸の渋塗(しぶぬり)職人、町田辰五郎に建築塗装を依頼します。
辰五郎は、はじめ、白色顔料の胡粉(ごふん)で下塗りを行い、桐油(とうゆ)と荏油(えのあぶら)でツヤ出し塗りを行ったのですが、その仕上がりはあまりにも酷いものでした。
そこで辰五郎は黒船からペンキとボイル油を入手。さらに船員から指導を受け、応接所を塗りなおします。塗装工事完了のおよそ一か月後、応接所で日米和親条約が結ばれました。
これが、日本人による初めての西洋式外壁塗装工事です。
この功績により、町田辰五郎は各国公使館からペンキ材料を購入できるペンキ塗元締の特権を幕府より与えられ、ペンキ職人の開祖として多くの弟子を養成しました(株式会社櫻井の前進)。
ペンキと塗料の呼び方
ちなみに、ペンキという呼び方には諸説がいくつかあります。
土地より高かった輸入ペンキの価格
明治に入ると、外国人が持参したペンキ刷毛を見本として、東京で国産のペンキ刷毛が製造されます。
また、横須賀造船所に「塗粧職工教育学校」が設立されました。
文明開化とともに西洋建築が東京や横浜で建築されていきます。
明治4年、「ペンキ」という単語が初めて新聞に登場し、新橋-横浜間が鉄道で結ばれると両駅は輸入した塗料で塗装されます。
明治10年ころになると、国産の酒精ワニス(アルコールを使ったニス)が製造され始めます。この時まだ、ペンキは外国製(主にイギリスから輸入)で、大変高価なもので、28ポンド(12.7kg)缶がおよそ3円でした。当時の品川の土地の価格が1坪で約2円だったそうです。
白粉から国産ペンキの誕生へ
明治14年、茂木春太、重次郎兄弟によって日本初の塗料製造会社「光明社」(のちの日本ペイント)が設立されます。当時、富国強兵を推し進めていた明治政府。そして軍備増強をおこなっていた日本海軍は、塗料製造が国家の重要産業になると考え、この光明社設立を全面的に支援します。
茂木兄弟は大和郡山藩の藩士でいわゆる士族です。若いころから優秀で、兄春太は明治3年に、弟重次郎は同7年に慶應義塾に入塾。その後、兄の春太は開成学校(のちの東大)に勤め、化学書の翻訳を通じて化学に明るくなっていきます。勤務先を開成学校から東京女子師範学校(のちのお茶の水女子大)に代えた春太は、芸者や歌舞伎役者が使う白粉(おしろい)の開発を依頼されます。
当時の白粉は毒性のある鉛白が用いられていたため、長期間使用していると、体に変調をきたす者が多かったのです。
春太と重次郎は、無害な亜鉛華を使った白粉の製造に取り組みます。明治12年に高純度の亜鉛華製造に成功すると、弟の重次郎は塗料の開発に取り組み、亜鉛華を使った国産の固練ペイントの製造に成功します。
兄春太は、光明社を設立した年に病気に亡くなってしまいますが、弟の重次郎はその後も塗料の開発を続けていきます。
そして、ボイル油、固練りペイント、油ワニス、船底塗料などは日清・日露戦争を契機に普及していきます。
当時の塗料は天然樹脂製で、乾燥に時間がかかり、耐候性もよくありませんでしたが、亜鉛華を使用した調合白亜鉛ペイントは昭和40年ころまで長く使われました。
亜鉛華の製造、ボイル油の製造、塗料配合技術の3つの基礎を作った茂木重次郎は日本塗料業界の父といっても過言ではありません。
ペンキは合成樹脂の時代へ
19世紀から20世紀初頭にかけて、合成化学の発展はめざましく、欧米諸国で人工的に作られる合成樹脂が次々に発明されていきます。合成樹脂とは、高分子化合物のことで「ポリマー・プラスチック」とも呼ばれます。
合成樹脂が塗料に使われたのが1907年。アメリカでフェノール樹脂が工業化に成功します。その後、ニトロセルロースを使った塗料が自動車塗料として普及します。
日本では、昭和に入り、アルキド樹脂の一種であるフタル酸樹脂を用いた塗料が開発され普及します。
「ボデラック」(日本ペイント)、「フタリット」(関西ペイント)、「タイコー」(大日本塗料)などが代表的なフタル酸樹脂塗料です。
戦後、エポキシ樹脂や塩化ビニル樹脂が塗料として実用化されると、塗料の性能は高度経済成長に合わせて、飛躍的に向上していきます。
戦後の塗料の進化
現代のペンキはエコの時代
昭和が終わり、平成になると、環境対策が重要視されていきます。高度経済成長時代のペンキには有害物質の使用や安全面に対する配慮も欠けていたことも一因となっています。
自然環境への配慮や、臭いなどの住環境への配慮は各塗料メーカーにとって欠かせない研究課題です。
また、耐久性や速乾性を飛躍的に高めたウレタン塗料、シリコン塗料、フッ素が次々と開発されているとともに、特定の機能を強化した塗料も開発されています。
主な機能性塗料
- これらの付加機能を複数組み合わせた塗料が各社から販売されています。
令和の時代になり、どのような塗料が開発されていくか、塗装業を生業とする者としては興味はつきません。